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2013年1月13日

【週刊読書】「視座」を明確に|『キュレーションの時代』(佐々木俊尚)


週刊読書はじめます――と書いて、3週間弱。いまだに一本しか書いていませんが、気にしません。・・・気にしてました。。

さて、本日は『キュレーションの時代』(佐々木俊尚)について。本書で『視座』という著者の視座を頂いたので、情報の洪水の中で自分はどのように行動するのかを考え直しつつ、最後に「なぜブログを書くのか」について少し触れてみたい思います。(― Blogging Worker’s Style)




年始にブックオフに足を運ぶと、全ての本が2割引きで売られていた。
とりあえず新書を9冊手にとってレジへ。105円の本を9冊なので、2割引きもあって750円くらい。激安。

購入した本を、とりあえず今月読むものと決めて一週間に2冊程度のスピードで読む。今年は読書量を増やして読むことを日常にする

それにしても、昨年いかに本という本を読んでいなかったかを痛感する。そのせいか、ジャンルにこだわらずに読んでると、どんどん「おお、そういうことか」「おっ、あれはこういう考え方に通じるな」という発見の連続で、読書の重要性というか視野を広げて精神的にもナイスなのだと改めて感じるわけです。

そういう読書熱みたいなものが再燃した今、『キュレーションの時代』を手に取ったのは決して偶然ではないのかもしれない。読書スタンスやアウトプットスタイルというものを大きく変革させてくれる一冊。早速、レビューしてみよう。



『キュレーションの時代』(佐々木俊尚)


さて、この『キュレーションの時代』は単に「これからはキュレーションの時代だ、君もキュレーターになろう!」的な軽い内容ではないのは、読み始めればすぐに分かる。以下で書くように、それは歴史的観点や文化的背景から今の時代を読み解く重要なヒントが散りばめられている。








第一章 無数のビオトープが生まれている





皆さんはこちらのアーティストをご存じだろうか。エグベルト・ジスモンチ。たぶん、知らない人は多いはず。私は全然知らない。でもこのアーティストを熱狂的に応援する人たちが日本にはいる。彼らにメッセージを届けるためにはどうすべきか?

本書では、「情報を求める人が存在している場所」をビオトープと定義し、私たちが欲しい情報や発信したいターゲットのアクセス先として、現代はビオトープを見つけることが重要と説明する。

ビオトープはアドホック(そのときどき)に生まれては消え、消えては生まれているのです。(45頁)

そこにはもはや“マス”メディアではカバーできない情報の流れがあるのだと、書かれているのです。

では、その流れの集まるビオトープをいかにして見つけるか?このビオトープを発見する法則を見つけることができれば、私たちは情報の洪水をコントロールすることができる。そんな法則を解き明かすヒントを与える――それが、本書を読む理由なのです。


第二章 背伸び記号消費の終焉


なぜわざわざモノを買ったりサービスを受けるのか。

消費がステータスを象徴する時代があった。高いステータスと見られたいから高い車を買う、ロレックスを身につける・・・それはそのモノ自体が好きだから買うというよりも、その向こうにある高ステータスという象徴と自分を重ねたいから消費をする。それが高度経済成長における消費の定番だった。

しかし、経済が右肩上がりで成長する時代は終わり、消費の方向性が変わった。




コーズ・リレイテッド・マーケティング (Cause-related Marketing: CRM)という言葉がある。同じような商品が並んでいたとして、現代の消費者はその消費を通じて社会貢献に参加できるものを選ぶ傾向があるので、企業活動と社会貢献を積極的に結び付けようという発想です。成功例としてよく挙がるのが、ボルヴィックの「1L for 10L」というキャンペーン。





こういう社会的課題の解決と企業活動を結び付けることが、企業の社会的責任(corporate social responsibility:CSR)とは別の論理で求められている。「消費」と「社会貢献」とが結びつくことで消費者が社会参加をする。


そして消費がつねに、自分と社会との関係性の確認のためのツールであるとすれば、消費そのものも承認と接続の表象へと変わっていかざるを得ません。(115頁)


もっといえば、「寄付」というものも同じなのだろう。「消費」がもたらす社会参加、その向こう側に存在するストーリーにつながるためのツール。従来の「ステータスに向かった消費」から、「ストーリーにつながる消費」へのシフト。

私が昨年イマイチ腑に落ちなかった「共感を生む」ということの正体が、ここでチラッと見える。消費の方向性は、機能面だけ充足できれば良いという「機能消費」と、ストーリーに接続するための「つながり消費」。なるほど、素晴らしいまとめ方だと思う。


第三章 「視座にチェックインする」という新たなパラダイム




私はamazonの人と話したことはない。しかし、彼らは私に「本日のおすすめ商品」を提示してくる。しかもかなり正確に。

これはライフログというもの。自分のウェブ上での行動を読み取り、「こいつはこういうモノを欲しがるに違いない」とはじき出して、向こう(サービス提供者)から提示してくる。これについてはプライバシーの問題が常につきまとう。行動を逐一読み取られ、蓄積され、サービスに活かされているからだ。それも私たちが意図しないところで。


しかし、自分から行動をオープンにしていたらどうだろう。


その情報にプライバシー性は一面において放棄されているといえる。それが「チェックイン」という機能。日本ではロケタッチというサービスがあるが、同じようなものなんだと思う(ほとんど触ったこともないんだけど。)。



ロケタッチ








この「チェックイン」のようにプライバシー性を放棄する機能が、「いいね!」「G+1」などにあるという。

ただ、これらによって例えばサービス提供者が提示する情報は、検索エンジンで単語検索をして関係サイトが一覧表示されるように、情報は限られた条件に集約されてしまい、そこからはずれる情報にはアクセスが困難になるという弊害もある。つまり、一つ一つのワードを軸に情報がかき集められるため、その一つ一つのワードを含まないけど本当に必要な情報にアクセスできなかったり、一覧表示された多くのサイトに埋もれてしまうということが起こる。つまり、必要な情報に必ずアクセスできるかというと、そうではないわけだ。



そこで「視座」という考えが登場する。



私は、ガジェットの購入を検討するとき、当該ガジェットについて書かれているブログを検索する。それが「No Second Life」というサイトに書かれていると、じっくり読んでおそらく購入を決意する。



なぜか?



それは、執筆者の立花氏(@ttachi)のガジェットに対する考え方が、私の求めるものに「近く」、そして「若干ずれている」からだと思う。「若干のズレ」が、「視座」であり、私に新しい可能性を開く。


勘のいい人はお気づきだろう。そう、この「視座」というのがキュレーションのスタートになる。



第四章 キュレーションの時代


今、インターネットには数えきれないほどの情報がアップされており、その中には有益な情報も無数に存在する。でも、情報はそれ自体として存在していても、それをどのように活かすかによって価値は高くなったり無価値にもなる。


それを左右するのが「コンテキスト」だと著者はいう。



情報というコンテンツの価値を決めるのは、コンテキスト。かといって、コンテキストだけでもダメで、コンテンツとコンテキストは互いに活かし合う関係にある。


情報のノイズの海の中から、特定のコンテキストを付与することによって新たな情報を生み出すという存在。それがキュレーター。(241頁)



最近、まとめ記事が流行っているけど、その理由は単なる寄せ集めではなくて、集めた人の視座が共感を得るからなのだろう。何でもかんでも集めても、共感を生むことはほとんどなく、だから同じまとめ記事でも秀逸なものからどうでも良いものまで生まれる。


キュレーターの定義とは、収集し、選別し、そこに新たな意味づけを与えて、共有すること。(252頁)




第五章 私たちはグローバルな世界とつながっていく


グローバルとキュレーターがどんなふうに結び付くのか、著者の佐々木俊尚氏が『キュレーションの時代』と本書のタイトルを決めた理由が、ここでまとまり、新しい可能性に期待を寄せます。


それは、ブログを書け、ソーシャルメディアを駆使しろ、というような短絡的なことではなく、各々の視座と文化の発展を絡めた、文化論の帰結としてキュレーションの重要性を説いていることが理解できます。




本書は壮大な文化論を展開しつつも、個人としてどのように生きるかという指針をも提供してくれる。情報の洪水の中から、私たちが従来のような手法で情報を受け取っているだけではカバーできない、またメディアの在り方も大きく変容してきていると巷で言われていることの本質を見事にあぶりだしている気がします。


非常に面白く、内容がズッシリと詰まった重い新書。著者の佐々木俊尚氏の視座を覗いてみることで、新しい自分に出会えるかも。








自分の視座は?フリーランスが活躍する時代


本書を読んで、なぜフリーランスが最近特に脚光を浴びているのか分かったような気がする。

それは個人の「視座」がモノをいう時代だからなのだろう。自分がどのような視座で物事を考え、情報を摂取・活用するのか。それが重要だから、たとえば企業としての視座と個人としての視座が、等価になりうる可能性がインターネットというプラットフォームなのだと。

それはつまり、個人の時代。

個人の視座を発信すれば多くの可能性が待っており、そのツールとしてソーシャルメディアは抜群のパワーを持っているのでしょう。


何のためにブログを書くか、ということについてブロガーのIkedaHayato氏(@IHayato)が分かりやすくコメントしています。



ブログ精神論が流行っているので考えてみた | ihayato.news








何のために・・・なんてどうでもいい話かもしれないけど、「視座」が重要と考えると、むしろ「自分らしく」発信すれば良いという話しになる。逆に、どのような「視座」を発信するかによってチャンスも大きく変わってくるのかもしれない。


私はどちらかというと、これまで「客観的」であることを心掛けてきた。自分についても世間に対しても。
それはそれで必要なことだけど、ただ解説者になるのかプレーヤーになるのかを考えたとき、少なくとも私は経済活動においてはプレーヤーとしての位置にいる。

であれば、行政書士として自分がどんなポジショニングで情報に接し、どんなふうに考えるのかをもっと押し出した方が、面白いし、わざわざこのブログを読んでもらう意義も出てくるんじゃないか。


そんなことを考えていたら、自分がやるべきことが見えてきて、ソーシャルメディアとの付き合い方にも大きなヒントが得られたりと、この本は多くのことを教えてくれた。


すべての個人にお勧めできる著書です。




 
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